かなり長い年月の間、コンピュータと関わってきたと思う。まだメールも携帯電話も無かった時代、
巨大化したアメリカの某OS会社さえ一般的には知られていない時代からだった。その中で常に感じてきたこと、当たり前ではあるが、 それは、いつでもコンピュータは
0 or 1ということだった。
デジタル化が進み、あらゆるものが 0 or 1 において処理されつつある。デジタルの世界では、この 0 or 1 の二つしか存在せず、数字も文字も絵も何もかも、自分の言葉でさえもが
0 or 1 に置き換えられて処理されていく。言葉は文字となって伝えられ、必要な情報はどこでも受け取れる、それがメリットであり、人々の生活に 便利さやリアルタイムでの情報伝達、素早いコミュニケーションを生み出したのは言うまでもない。
しかし、忘れてはならないことは、人間はアナログだということだ。0か1か、黒か白かだけでは、はかりしれない複雑な感情を持っている。 そして、実によく出来た身体を持ち合わせ、この地球上で一つの生命体(アナログ)として生きている。すでに誰もが気付いている通り、
複雑化してきている現代において、疲れた心を引きずっている人は少なくない。それは、このデジタル化ということにも一つの要因があるのかもしれないと考えずにはいられない。
ある時、私自身、心の問題とぶつかることになり、カウンセリングを受けることになった。そこでふと生じた疑問。 それは、私の中では「カウンセリング」というのは普通の病院に通うような気持ちであったにも関わらず、周囲やカウンセラーからの驚くほどの疎外感だった。
何故、髪の毛が伸びたからと美容院に行くように、虫歯が出来たからと歯医者に行くように、カウンセリングに通うことを受けとめてもらえないのだろうか。 カウンセリングを受けることは異質でも何でもない、ただ単に心が風邪を引いたようなものだ、私はそう思う。
そこでは、カウンセラーもクライアント同士の接触を避けることや、互いの連絡に慎重さを期した。それは特別ではなく当たり前のことであり、 守秘義務を考慮した時には必須の事柄である。それでも、そこで私は「自分は普通ではない」と感じてしまった。カウンセリングの条件や
カウンセラーの対応は当然でありながらも、なお、釈然としないものを感じたのは私だけだったのだろうか。
このようなことから、もっともっと心のケアを当たり前のことにしたい、それがSelfeeの始まりだった。カウンセリングの日本における状況や、 欧米のそれとの相違点を含めて述べていくと、それは大変な作業になってしまうので今回はひとまず脇に置くことにするが、もっと多くの人が、
「心」の傷について真剣に考えることが出来る環境を作り出したい、そう考えている。例えどんな小さな傷であっても、目をそらすことなく 自分の心と向き合えるようになって欲しい、自分の手で、自分の勇気でケアすることを本気で考えて欲しい、そう願いゼネラルテラピーを
その一つの選択肢としてここに立ち上げた。
それからもう一つ、臨床心理士や精神科医が、必ず心のケアをしてくれるとは限らないということも一つの知識として持っている必要がある。 彼らは医学的にはプロフェッショナルであるが、カウンセリングが出来るかどうかということとは別である。あらかじめお断りしておくが、
決して臨床心理士や精神科医の方々を否定しているわけではない。私がお会いした先生方の中には、本当に素晴らしいプロフェッショナルな カウンセラーもいらっしゃった。ただし、これは確率の問題にもなるが、自分が望む心のケアをしてくれる先生を見付けることはなかなか難しい。
彼らは自らに厳しく、猛烈な勉強をし、数々のキャリアを積み重ねてきたのだと思う。当然、尊敬に値するべきだということはしっかりと心にとめている。 しかし、一般の多くの人が身を置いているこの流れの早い現代の世の中を、実際に歩いてこなかった人に、ある意味で共感してもらうということは可能なのだろうか。
学問として、理論として、当然プロフェッショナルな処置・対応は存在しているが、常に流動しているこの世の中で、普通の人間であるが故に抱える心の痛みを、 的確に聞き取ってもらうことは可能なのだろうか。彼らをA級とするならば、私はB級、C級といったところだろうか。
カウンセラーとしての知識やレベルで言えば足下にも及ばないだろう。むろん、彼らと対等になれるとは考えていないし、それは筋違いだとも認識している。
それでも、私自身が歩んできた道のり、一人の社会人であった経験、この世の中の大きな病の元となる小さな芽をいくつも垣間見てきたという事実、 それも決して無駄ではないと信じている。
そういった先生方を批判する気は全くない。ただ、普通の人間にしか知ることが出来ない傷があるからこそ、普通の人間が施すことが出来る解決策があると言いたい。 もちろん「xxx症」「xxx病」などのように診断された人の場合は、医師やその道のプロフェッショナルな方に診てもらう必要がある。
優れた知識において的確な治療を行ってもらう必要があるからだ。ただ、今の世の中では数多くの人が「xxx症」「xxx病」の予備軍であるということも、 忘れてはならない一つの事実ではないだろうか。
そして最後に、自分の傷(心身共に)の面倒をきちんと見ることが出来るのは、結局は自分しかいないと考えている。 現在の世の中で、人間は大事なものを忘れかけてしまっている。地球上のあらゆる生命が持っている本能が、どこかに置き去りにされてしまっている。
その忘れかけてしまった本能を最大限に生かすことによって、自分の傷を癒すことが可能になる。幼い頃、転んで膝をすりむいたとき、 気が付くとその怪我が治っていたように。成長するにつれ、自らを取り囲む社会形成は大きく複雑になり、本来ならば備わっていたはずの力が損なわれてきた。
そして、これにはずみをつけるように、何かにつけて「薬」一辺倒の処置にも問題がある。人間の治癒力はどこに行ってしまったのだろうか。 全ての心身の病がその力で治るというわけではない。むろん、必要な処置、必要な薬がある。ただ、一つだけ考えるべきことは「過剰な処置」「過剰な薬」
ではないかということだ。
日常の生活の中に、それらを踏まえた上で、ほんの少しのテラピー(癒し)を取り入れること、それは、難しいようで本当はとても簡単なことだと思う。 日々のその些細な積み重ねによって、忘れかけていた本能を活性化させることが出来るのではないだろうか。失いかけていた五感のバランスが元に戻るのではないだろうか。
人の数だけ心の傷が存在するように、やはり、同じように人の数だけのケアが存在するのだと思う。21世紀は癒しの時代だとよく言われるが、 その癒しもその人なりの力に合わせたオリジナルなものでなければならない。そして、歳や性別に関わらず、様々な選択肢の中から自由に癒しを
選べるようでなければならない。
それが本当の意味での「癒しの時代」なのだと私は思っている。 |